第6回「宗教とは何か」は平野喜之氏(僧侶・数学者)「苦は渇愛より生ず」である。

 今回、平野氏の講義は、釈尊の悟りの内容である「縁起の法」を、童話『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ)と『100万回生きたねこ』(佐野洋子)のストーリーで解説された。物語のおかげで、どんな課題をどう解決したのかがよくわかった。

 

〇苦はどこからくるのか

 釈尊の課題は「四門出遊」のエピソードによって、およそ理解できる。この課題に対する答えが、縁起の法という悟りである。平野氏はこの縁起の法を生(しょう)、有(う)、取(しゅ)、渇愛(かつあい)から説明された。「渇愛の心とは、自己を渇き求める心である。私は私でありたいという祈りともいえる心が、渇愛の中心である」。しかし、「私は私でありたい」ということに対して、間違った私を追い求めることがよくある。その状態を仏教は迷いと呼ぶ。この迷いを超えるにはどうすればいいのか。

 

〇『はてしない物語』

主人公のバスチアンは、望みをかなえてくれるメダルを使い、なりたい自分になって行く。しかし、立ち止まって考える場面がある。「真の意志」をバスチアンはそれほど難しいものだと思っていない。しかし「これはあらゆる道の中で、一番危険な道なのです」とライオンが答える。ひとつはカルト宗教へ陥る危険があるし、もうひとつはレディ・メイドの目標を自分の目標だとしてしまうことが多い。どちらも「仮の意志」である。「真の意志」はどう見つけるのか。

 

〇『100万回生きたねこ』

100万回生きたねこは、なぜ100万回も生きなければならなかったのか。仏教の文脈で言えば、輪廻転生を繰り返している。一回の生で満足することができずに、次の生を求め続ける。しかし、主人公は白いねことの出会いによって変わる。白いねこは、主人公に自分自身を見つめるきっかけを与え、少しづつ変わっていく。この出会いにより、主人公は泣くことが可能になり、もう生まれかわる必要がなくなる。

 

 概して、『100万回生きたねこ』のストーリーの簡潔さと内容の深さに驚いた。佐野洋子さんは仏教の素養があっただろうが、これほどうまく表現していることに驚いた。ただ、平野氏は仏教は仏教の用語を使って、人間の在り方の普遍性を説明しているだけだとも言われた。


第5回「宗教とは何か」は水口秀樹「私の『正法眼蔵随聞記』」④でした。

 

 今回はテーマを持って参加者と話し合いました。それは仏道に専念するということは、他の知識・関心を切り取るということになるし、そうしなければ悟りには到達できない。当時、鎌倉時代の少数独裁政権下の社会で、一般人は政治に参加することはできなかった。しかし、現代の民主制においても、この考え方のままでいいのか、話し合った。

 

〇たこ壺

 現代において、悪く言えば専門バカやたこ壺化と言って、批判される対象である。しかし、仏道から見ると、専門化とは違う。言い換えれば、いくら知識を浅く広く積み重ねても、悟りには到達しない。悟りというのは、学識や才覚とは本質的に異なるものである。民主主義社会ではどうするのか、参加者との話し合いでも明確な道筋には至らなかった。

 

〇世間によらず、仏法による。

「現在、この日本国の人々はたいてい、或は動作の作法について、或は言葉づかいについて、その善し悪しを世間の人が見聞きしてどう判断するかを考えて、そのことをしたら、人はきっと悪く思うだろう、そのことを人はきっと善いと思うだろう、また今だけでなく、将来も人がどう思うだろうかなどと執着している」と道元は述べる。

 この点は夏目漱石が述べた「自己本位と他人本位」の指摘と同じである。いずれにしても、他人本位だけでは自分の人生を歩むことはできない。「人目によらずして、一向に仏法によりて行ずべきなり」と道元もいう。

 

〇無常について

 道元は無常は眼前の道理だと述べた。「朝(あした)に生じて夕(ゆうべ)に死し、昨日見し人今日なき事、眼にさへぎり、耳にちかし」。人は無常を感じてもなんとか生きていける。しかし、それよりも仏道を歩むべきだと道元はいう。「無常迅速 生死事大」ともいう。


第4回「宗教とは何か」は平野喜之氏(僧侶・数学者)「マンガで学ぶ仏教」である。

平野氏の講義は他人の苦悩への共感をより重視する大乗仏教の立場から、秋竜山氏のマンガを題材にして、仏教の悟りの内容である「縁起の法」を考えるものであった。

 

〇はじめに

 最初に、仏教の基本的な事柄についての学習があった。ゴータマ・シッダールタの名前の意味から、悟りの内容である「縁起の法」とその教えである、三法印・四法印の解説など。

 

〇人間の欲求

平野さんによると、仏教は人間の欲求を二つに分けて考えている。ひとつは渇愛である。もっとこうしたい、ああしたいという「私」の欲求のこと。もうひとつは、触れ合ったり、わかち合ったりすることから得られる喜びのこと。この触れ合ったり、わかち合ったりする喜びを得るためには、勇気、想像力、知恵が必要であることを、マンガで説明された。

 

〇マンガ:階段

 この「階段」というマンガでは、「てすり」が描かれている。普段はあまり気にかけないで、階段を利用している。しかし、地震がくるとみんな、たちどころに「てすり」につかまる。地震や災害にあうと、私達が普段、何かに「よって」生きているということをあらためて実感する。この「よって」や「よる」ということが、縁起の法の「縁」と考えることができる。

 

〇私の感想

 民主制という制度は、すべての人が政治参加しなければ、少数の人々によって運営される少数独裁になる可能性がいつもある。平野さんが紹介されたマンガも、それぞれの場面で私達に「縁」を問うているものだった。人は完全ではないから、知恵が足りなかったり、勇気が出なかったりする。しかし、指針を手がかりに前に進むことができる。


第3回「宗教とは何か」 水口秀樹(主催者)「私の『正法眼蔵随聞記』③」

 

 道元がこの『随聞記』で述べた内容は、現在の私達が日常でぶつかる問題と深く関わっている。それは普遍的な問題だからいつでも問題になるのである。

 

〇教義と道理

 仏教修行者は聖典をはじめ祖師の言葉や行いを学びながら、それらを積み重ねてきている。しかし、その効果がない場合はどうするのか。

「以前から学んでいる教家の学問の効果も、捨てなくてはならぬ道理があるならば捨てるべきであり、いま学ぶ意味に従って見直すべきである。仏教の教義を学ぶことは、いうまでもなく、出家して仏道を悟るためである。自分の学問してきたところは、長年の功労を積み重ねている、どうしてたやすく捨てようかと、やはり心中に深く思案する、この心をとりもなおさず、迷い縛られている心というのである。よくよく考えてみなくてはならない」。

 「捨てなくてはならぬ道理があるならば捨てるべきであり、いま学ぶ意味に従って見直すべきである」というが、なかなかできるものではない。それに道理があるのに捨てる場合があるし、それが進むとカルト化、反社会的になる可能性もある。一方で、道理が今の時代にはないのに、捨てないということもあるだろう。

 

〇出家

 鎌倉時代も現在でも同様だと思うが、出家するということは、どういうことなのか、道元はいう。

「仏道にはいるには、善と悪とを分けて、あれが善いの、これが悪いのと思うことを捨てて、自分の身がよくなるようにとか、自分の心持がどのようになろうかと考える心を忘れ去り、善いにせよ、悪いにせよ、仏や祖師の言葉・行いに従ってゆくのである」。

 「あれが善いの、これが悪いのと思うことを捨てて」、仏や祖師の言葉・行いに従ってゆく。この善悪の判断を仏道に任せず、恣意的な教えの師に任せると、カルトの道に進む。この点は紙一重である。怪しいと気が付くかどうかは、宗教的素養、教養による洞察力によるだろう。

 

最後に、道元の警告を引いておきたい。

「ほんとうに、内徳がないのに、他人に尊敬されてはならぬ。この日本国の人は、ほんとうの内徳をつきとめることができず、外相で人を尊敬するからして、求道者のない修行者は、たちまち悪いほうへ引っぱられて、悪魔の従者となるのである」。

 この文は一般人と修行者ともに、道元に注意されている。これは現在、民主制において選挙で代表を選ぶ時にも、考えておくべきことである。


第2回「宗教とは何か」 水口秀樹(主催者)「私の『正法眼蔵随聞記』②」

 

 今回は①「カルトと宗教との違いをどう考えるか」②「あなたにとっての宗教とは何ですか」の二つの課題をもって、道元を読むことにした。その中での感想を少しご紹介する。

 参加者との対話において、「学問の追求と求道心とは違う」という意見があった。近代の成立過程で、ヨーロッパでは神の設計図を調べるという観点から、真理を探究した学者もいた。現在、学問の真理の探究と自分の道を見つけ、追求していく求道心とはかなり異質なものになっているのかと思った。

 

〇『文選』について

 道元が『文選』から引用した部分を紹介した。「国は一人のために興り、先賢は後愚のために廃れる」。この意味は国に賢人が一人出現すると、その国が盛んになり、愚人が一人出現すると、昔の賢人がなしたところは廃れてしまうというのである。道元の時代は民主制ではないので、現状にそのまま当てはまらないが、考えさせる言葉である。

 

〇仏道の徳について

 また、仏教の道徳についてその徳がどうあらわれるかを道元は述べている。現代語訳で紹介する。

「仏教の徳が外に現れるのに三段階がある。第一は、あの人は仏道を実践しているのだと、世に知られることだ。第二は、その仏道を敬慕する者が出現することだ。第三には、その仏道をその人といっしょに修行し、いっしょに実践する人が現れることだ。これを仏道の徳が外に現れるというのだ」。


第1回「宗教とは何か」 水口秀樹(主催者)「私の『正法眼蔵随聞記』」。

 

道元(1200~1253)曹洞宗の開祖。宋から帰国後、旧仏教から迫害され、のちに越前に隠棲し、永平寺を開創。彼の弟子懐奘が師の折に触れて教示した教えを書き残したのが、この『正法眼蔵随聞記』である。主著は『正法眼蔵』。

 

〇私は普段、岩波文庫の『正法眼蔵随聞記』を持ち歩き、仕事の前の数分の間、読んでいる。学問的に読んでいるというよりも、生きる上での指針、生活の支えとして取り組んでいる面もある。その行為は私の幸福にかかわり、どう考え、どう行動するかのヒントになる。ここでは講義で述べた一部をご紹介する。

 

〇宗教の文化的所産か人間か

この話は道元の先生、栄西が建仁寺にいた時のことである。数日間、絶食している貧人が建仁寺に来て、「このままでは餓死するしかないので、慈悲をもってお救いください」という趣旨のことを述べた。あいにく寺には、衣食財物がなかった。そこで栄西は薬師の像の光の銅棒を取って、折り束ねて与えた。すると弟子たちは反発。「あれは仏像の光だ。仏の物を私するのは怪しからぬ」と。それに答えて栄西はいう。「まことにその通りである。が、仏は自分の身肉手足を割いて衆生に施した。この仏の心を思えば、現に餓死すべき衆生には仏の全体を与えてもよかろう。自分はこの罪によって地獄に落ちようとも、この事をあえてするのだ」。

 この話から何を考えるか。文化財として重要な仏像と目の前で餓死しそうな人、どちらを優先するのか。どちらを優先することが仏教の教えなのか。もちろん、釈尊と栄西は仏像より目の前の人間を優先する。その精神が仏教の教えであるはずだと、この話題は教えてくれる。

 民主主義でも仏教でも、その精神よりも形式だけを守ればいいと考えがちになる。選挙にだけ勝てばいいというのは、民主主義の精神ではない。